イオンのカーニバル
我が家にはイヤイヤ期の息子がいる。
どこかにも書いたが、イヤイヤ期とは
「何でも自分でやりたいのにうまくできない、お母さんには絶対手伝ってほしくないけど自分じゃうまくできなくてあーもう最悪、なんで、あーーーーーもう全部いや、あーもう全部いやになっちゃったからね!!!」
というのが24時間続く時期である。
こうなると何をするのも大変だ。息子はゆるめのイヤイヤ期だが、それでもすぐ怒っておもちゃやらフォークやらをぶん投げるので困っている。
何より大変なのは買い物だ。まず一対一で買い物に行っても必要なもの全てを買い揃えることは不可能だと、はなから諦めて行かなければ心身がもたない。
スーパーでも、
「あ!見てクリスマスの飾りがあるよ~可愛いね!あっち見に行ってみよう?」
などと王子のご機嫌を損ねないよう慎重に声をかけつつ、キラキラした正月飾りの横のコーナーに誘導し、豆腐をゲットする。幸い、ツリーにしめ縄やかがみもちがおかしいということはまだ彼はご存じでない。
そんな、気分はさながら爆弾処理のママの買い物だが、この世には神が生み出した素晴らしい施設がある。イオンだ。いやこんなに世話になっておいて呼び捨てだなんて失礼かもしれない。イオン様だ。
まずイオン様は駐車場がでかい。ママがアルファードで子ども3人と来ても大丈夫だ。あ、我が家はソリオですが。
そしてトイレもでかい。基本外では自分はトイレに行かなくていいようにして出掛けるが、それでも緊急事態のときはある。抱っこひものまんまとか、ちょろちょろ3歳児と一緒にとか、そうなると普通だったら個室はぎゅうぎゅうだ。その点イオン様のトイレはよく考えられているなぁと思う。ベビーカーごと入れちゃうトイレだってある。きっと緊急になりやすいママが発案したに違いない。
そして、店内がとにかく広い。さらにイオン様には子どもが退屈しないように、屋根とハンドルのついたキャラクターカートが用意されている。これに乗せれば子どもはご機嫌に運転手気分を味わい、ママはゆっくり買い物を楽しめるという寸法だ。
しかしそう一筋縄ではいかないのが子ども。さっきまではアンパンマンカートがよかったけれど、他の子とすれ違ったらやっぱりトーマスカートがよくなった、などと言ってすぐ機嫌を損ねる。イオンは広しと言えどさすがに既に乗っているアンパンマンカートをそのへんに乗り捨てるわけにもいかないので(かなりでかい)、乗り換えられるところまで我慢していただくしかない。しかし聞き入れていただけるはずもなく、
「おぃゆ(おりる)!あゆく!おぃゆ!あっち!あっち!だこ(だっこ)!だこ!うわぁぁぁあああ」
爆弾が爆発した。こうなると戦闘開始の合図である。
「トーマスのところまで行こう?」
「のやない(のらない)!おぃゆ!」
「アンパンマン置いていけないでしょ?ほら乗って行こう?ブーン!」
「のやない!おぃゆ!あっち!あっち!」
「じゃあ押していこう?ブーン!」
「だこ!だこ!いかにゃい(行かない)!」
ああもううるさいから仕方ない、と下ろすともっと悲惨だ。つないだ手を強引に振りほどいてちょろちょろする3歳児を、アンパンマンカートを押しながら追いかけ回さなければならない。こうなると、あの素晴らしい味方アンパンマンカートもただの巨大なお荷物である。
さらにその後、床と一体化した3歳児を数十分説得し続ける。
「ねえもう行こう?」
「いかにゃい」
「行きたくないかあ。じゃあ寝る?」
「ねにゃい」
「とりあえず立とうか?」
「あああぱあぱあ~(床に突っ伏して喋っている)」
ああブラジルの人よ、聞こえますか。
こちらは12月に入って町が一気にクリスマスムード一色となり、ショッピングモールにもツリーやおもちゃが立ち並ぶ季節となりました。
さて、いつも息子がお世話になっております。
イオンでも、ヤオコーでも、はたまた公園や家の前の道路でも、突然話しかけてしまってすみません。
ブラジルで地面からわき出る声は、私の息子のものです。
私の息子は、何を言っているかはよく分かりませんが、日本からはるか遠いブラジルのあなた方と交信したいようです。特に母親がガミガミとうるさい日は。1人、そちらのカーニバルを受信して歌ったり踊ったりしていることもあります。
今度息子が話しかけた折には、どうかぜひ、すぐに立ち上がるよう話していただけないでしょうか。
そうすれば息子も私も、また笑顔で前を向いて歩いていける気がします。
どうかくれぐれもよろしくお願いいたします。
追伸:母はサンバホイッスルなら多少嗜んでおります。人手不足の際にはご用命ください。
カメの話
飼っているカメが懐いてきた。
1年半くらい前に、家の前で拾った。500円ほどの小さなミドリガメだ。
拾ったとき、私はベビーカーを押していた。うわーうんこだ、と思って避けたのが、我が家の可愛いカメさんである。
我が家のベビーカーは親戚からの頂き物で、なんとびっくり、7万円ほどする見事な代物である。タイヤに空気を入れるタイプで、赤ちゃんに伝わる振動が少ないらしい。
そんな素晴らしい機能と素晴らしいお値段のベビーカーで、絶対にうんこなんか踏みたくない。息子を初めて乗せたときから私はその一心で、目を皿にしてうんこを探しながら毎日ベビーカーを押していた。
1年半前、私たち一家は引っ越しがやっと済んだところだった。
引っ越しに際して私は、あまりの手続きの多さと荷物の片付かなさに心が針穴ほどに小さくなり、些細なことで夫にキレ散らかしていた。
と言っても面と向かって当たり散らす意気地はないので、キレてだんまりを決め込む私とイマイチ状況が飲み込めない夫との冷戦状態であった。
今でこそ笑って振り返れるが、私の心は本当にどうしようもない状況だった。
夫と喋りたくない、息子も言うこと聞かない、っていうか私の言うことが分かってんだか分かってないんだかそれもよく分からない、あーそれは夫もだわ、もう無理、みたいな。私がちゃんと言わないからいけないのだけれど。察してほしいじゃん、乙女だし。
とにかく雰囲気は最悪だった。
そんなときだ。カメを拾ったのは。
息子を散歩に連れ出すため、家族で家を出た。私は上述の通りうんこを探しながら出発すると、家の目の前にうんこがあるではないか。(さっきからうんこうんこ言ってごめんなさい)
うわーうんこだ、しかも家の前じゃん、え。
え?まる!
まんまるだったのだ。
さすがの私もここで、これはうんこではないぞと気づいた。なんの生き物が人間の家の前できれいなまんまるうんこをするというのだろう。そんなのんびり脱糞するなんて、油断しすぎである。そのような生き物は自然界では生きられないに違いない。
では何かと思い立ち止まってよく見たら、まんまるいのはカメの甲羅だった。それは夏になりかけた季節の日差しをもろに浴び続けたようで、からからに干からびていた。
小石でちょんとつつくと、引っ込めていた首がもっと引っ込んだ。あ、生きてる。
ちょっと嬉しかった。それは、死骸じゃなくてよかったという心ない安堵でもあったし、新しい家族が増えるぞという嬉しさでもあった。生きてるとわかった時点で、飼うことは私の中で決定事項だった。
夫は、さっきまでぶんむくれて口もきかなかった妻が、干からびたカメを捕まえててきぱきと飼う支度をしているのを見て遠くからぽっと「名前考えないとなー」と言った。久々に、この人と結婚してよかった、と思った。
そのときのカメが、最近ようやく懐いてきたのだ。
あのときベビーカーに乗って夫とともにぽやんとしていた息子は今ようやく、椅子によじ登ってカメにエサをやれるようになった。
カメがエサをもらいに来る。
息子は不器用にエサを握りしめ、ぽろぽろこぼしながらも水面にまく。
カメはじたばたと喜び、息子は「カメ!もぐもぐ!」とやはりじたばたする。
実は息子は、他の子と比べると成長がゆっくりめだ。親としてはそれに焦ることも多い。特に子どもが寝静まり、日記を書きながら1日を振り返ると、うまくいかなかったことの方にフォーカスしがちになる。
けれど、残った力を振り絞って首を引っ込めていた干からびたカメだって懐いた。
ベビーカーでぼうっと座っていた息子だって、自分で椅子によじ登るようになった。
2人ともまだまだ不器用だけれど、不器用なりに時間を重ねて、少しずつ、けれど確実に前に進んでいる。
やっと懐いた我が家のカメを見ると、そのことを思い出しハッとさせられる。
私も下を向いてうんこばかり探していないで、前を見て生きていかなきゃな、と思う。
子どもの叱り方
子育て経験のある人はもちろん、ない人も、一度は耳にしたことがあるであろう「イヤイヤ期」。
だんだん世界が広がってきて自分のやりたいことが出てくるが、あいにく思ったようにはうまくできなくて、とりあえず「イヤ」と言いまくる。
成長と分かっていても、親にとっては恐怖でしかない時期だ。
そして我が子もその時期に差し掛かっている。
ただ息子はあまり物事に執着しないタイプ?のようで、どうしてもこれがやりたいとか、どうしてもこうじゃないとイヤだというのはあまりない。
よって今はそんなに酷くダダをこねることもない。
ここで
「うちの子は大人しくてよかったわー」
なんて油断しているといけない。
子どもというのは本当に、昨日まで聞き分けがよかったと思ったら、ある日突然スーパーの床に寝っ転がって奇声をあげたり泣き叫んだりし絶対にアンパンマンふりかけを買って帰るなどと要求し出す可能性を秘めている生き物なのだ。
子どもの可能性は無限大とはよく言ったものである。
さて、そんないつ訪れるか分からない恐怖の明日に備えて、私は息子への叱り方というか声のかけ方を考え直している。
これまでよく言っていたのは
「食べない」
「投げない」
「優しい声で言ってね」
などだ。
考え直すってことは、やっぱり「〇〇しない」ではなく「〇〇しよう」と言うことにしたのかー、と思っただろうか。
確かによく聞く「よい伝え方」の例である。
しかし上の2つは自分と他人の命が関わるので少なくとも私の場合は全くそれどころではない。理想の叱り方など後回しだ。
あっと思ったらコンマ1秒で口に出し、なんなら体を張って止めないと最悪誰か死ぬ。
育児書などで言われる、
「石はそっと置こうね。投げると危ないよ。お友だちに当たって、イタイイタイしちゃうかもしれないからね。」
などと悠長に言っていると、その間にうちの息子は多分5個くらい石を投げ終わっているし、
「クレヨンはお絵かきするものだよ。お口に入れたらお腹イタイイタイになっちゃうから、紙にかきかきしようね。」
と言っている間にまるまる1本クレヨンを食べ終わっていると思う。
まずは命を救ってから、なんじゃかんじゃと説教をたれる。まあその頃には息子はもう次のことに気をとられているのだけど。
ちなみに「優しい声で言ってね」は、
妹が泣いたときに息子が妹の名前を叫んだら奇跡的に泣き止んだことが一度だけあり、なぜかその奇跡の1回が彼の中にインプットされ妹が泣くと必ず名前を叫ぶようになってしまったので、最近よく息子に言っているセリフである。
止められなくても妹が泣きわめくだけで誰も死にはしないので、親の方もゆとりをもって声かけできる。
まあそれは置いといて。
最近、私の言い方がかなり遠回しになってきていることに気づいてしまった。
高いところに登ったとき「落ちるよ!」
靴下で走り回ったとき「転ぶよ!」
ドアで遊んでいるとき「指はさむよ!」
分かるだろうか。
それぞれ
「登らない」または「降りて」
「走らない」または「歩いて」
「ドアで遊ばない」または「ドア閉めて」
などと言えばいいのに、咄嗟に出るのがまさかのリスク提示、もっというと脅しなのである。
これはまずい。
小学生くらいなら
落ちるかも→危ないな→降りよう
となるかもしれないが、2歳には無理だろう。
案の定、「落ちるよ!」と言っても息子は「うん!」と言って塀登りを続ける。
この脅し法、最近気づいたが前からよくやっていたみたいで、全然直らない。むしろこればっかりだ。
しかも、まずいと思って言い直すから息子は母が何を言っているんだか分からず、日々かけがえのない可愛らしい命を笑顔で危険にさらしている。
育児書の通り、声のかけ方ひとつで子どもの将来にそんなにも影響が出るものなのか。分からないが、注意が伝わらないことには命が守れないので、伝わるようには努力しなければならない。
これからどんどん大きくなって、叱ると言ってももっと複雑な話をしていかなければならなくなるんだろうなと思う。
「落ちてるもん食べない!!!」と叫んでいる今が愛おしくなる日が来るのだろうか。
どうか小学生になっても中学生になっても「落ちてるもん食べない!!!」と言ってませんように。
落ち着いた生活
最近よく口にするそして耳にする、
「落ち着いたら」という言葉。
流行り病が落ち着いたら
子育てが落ち着いたら
なんとなく気持ち的に今はバタバタしてるのでそれが落ち着いたら(これはヒドイ)
様々な場面で様々な人に言ったり言われたりしている。
とある友人が先日、
「落ち着いたら…を使いすぎて断り文句みたいになっている」
と言っていたがまさにそうで、
落ち着いたら色々やりたいと私は心から思っているのだが
落ち着いたらねと言いすぎて、四方八方に申し訳がない。
落ち着いたあとにやることが山積みなので、
多分しばらくは私、落ち着かないだろうと思います。すみません。
そしてそういう人って「落ち着きがない人」というんじゃないかしら。
チーン。
落ち着きのない私は、息子の乳児期が落ち着きかかったところで2人目を授かった。
そして今年の3月に娘を出産した。
さて、出産と聞くと陣痛から産む瞬間までがキツイと思われがちだが、それだけではない。
案外キツかったのは妊娠中だ。
1人目のときは特にそうは思わなかったが、2人目となり幼児を抱えての妊娠はかなりキツい。
妊娠が分かってからまずアイツが即やって来た。
つわりだ。
陣痛以降をキングボンビーだとすると、
つわりはキングデビルカードだ。
誰にでも来るわけではない。誰が悪いわけでもない。
それなのに気力体力ともに毎ターンごりごり奪われる。
しかもいつ消えるのか分からない。
ああこのターンもか…ああもう1ターンか…の繰り返しである。
テレビ画面をバッテンに駆け巡るキングデビルと、ヤツの出すギリギリギリ~という音が、つわりの辛さを表すのにピッタリだと思う。
汚い話で恐縮だが、私は吐きづわりという
とにかくめっちゃ気持ち悪くていつも吐きそうエブリデイウルトラ二日酔い!!!
のタイプだった。
半年近く何を食べても水に流していたのだが、
食べられたものもいくつかあった。
ゼリー
海草スープ
ホワイトソース
マックのポテト など
このラインナップを見ても、いかに妊娠が謎に包まれた神秘的なものかお分かりいただけるだろう。
普通、吐く人はホワイトソースは食べない。
そんな中、やっと歩けるようになり元気いっぱい夢いっぱいの幼児に24時間つきっきりである。
外の世界に飛び出したい1歳vsトイレにこもりたい28歳、この勝負がなかなかキツいものだった。
勝負と言ったってたかだか1歳児、28歳の言うことを無理矢理聞かせることはいくらでも出来るし、DVDやら動画やらお菓子やら、黙らせる術はいくらでももっている。
アイテムを与え大人しくだらだらさせて、ゆっくりトイレにこもればいいのだ。28歳の圧勝だ。大人をなめるな。
しかしこれは親になってみれば分かると思うが、か弱い1歳児は思わぬ奥義をもっているのだ。
「親に罪悪感を抱かせる寝顔」
これは強い。こちらのメンタルがじわりじわりと削られていく。
今日も外に連れていかなかった。
今日も遊んでやれなかった。
今日もテレビばかり見せてしまった。
イライラして怒ってばっかりだった。
外で遊びたかったよね。走りたかったよね。
絵本読んで欲しかったよね。
お母さん、なんか怒ってゲロ吐いてばっかでごめんね…
毎晩これだ。1歳児は、本人の意思と関係なくこれをお見舞いしてくる。
妊娠中、これが一番キツかったかもしれない。
結局、はちみつ飴やら乾燥梅干しやらを気休めに口に含みながら、青白い顔でママチャリをキコキコ漕いでいた。
そんなキングデビル期が終わると、今度はお腹が目立つようになり、体が重く怠くなってくる。
ただこの頃には息子も多少頼もしくなってきて、公園で目の届く範囲ならちょろちょろさせても大丈夫になってきていたので、でかい腹でチャリを漕ぐこと以外はそんなに苦にならなかった。
そしてチャリにも乗れなくなった臨月。
限界だった私は妹をヘルプに呼び寄せた。
10歳年の離れた妹だ。
私と息子と妹の3人で暮らしたあの1ヶ月のことは、多分一生忘れない。
長くなるのでまた別で残せたらと思う。
まあその後なんだかんだで無事に娘を出産し、今もやれ泣いただのやれウンコしただのと落ち着かない日々を送っている。
もう何年も落ち着かないので、落ち着いた生活が分からなくなってきた。
結局、はよ落ち着きたいわーと言いつつ、落ち着かない今の生活も好きなのかもしれない。
でもやっぱり、落ち着いたら温泉行きたいな~と思う私なのでした。
お久しぶりの照り焼き
ベビオは1歳と8ヶ月に、私は17歳と131ヶ月になった。
あっっっっっっっ
という間にベビオはベビー感がなくなった。
ひっくり返った虫のように(表現が悪い)上を向いてじたじたしていただけだったのが
ちょろちょろ這ったりドアを開けたり閉めたり
物を出したりしまったりひっくり返したり投げたり破ったりぶっ壊したりと
彼はある程度の自由を手に入れた。
基本、彼ら乳幼児が自由に取り組む活動は、我々大きい人からしたら「いたずら」である。
棚のタオルを全部出す。
はらぺこあおむしのしかけをびりびりに破く。
パズルマットの耳をはがして食いちぎる。
おしりふきを全部ひっぱり出す。
掃除機のごみ溜めポケット(?)を出してゴミをばらまく。
自由なんだから、出すんじゃなくて重ねてくれてもいいのに。
自由なんだから、ページをぺらぺらめくるのを楽しんでもいいのに。
なかなかそうはいかない。
我々が期待する活動は、幼子にとってあまり魅力的ではないのだろう。
そうなると、大人ってなんて魅力的でないことばかりしているのかしら!という気分になってくるが、それは大人なので仕方がない。
それに、きちんと並べたり重ねたりすることに魅力を感じる子もいるらしいし、大きくなるにつれて"規則正しく"とかなんとかそういうことに魅力を感じるようになる人もいるらしい。
片付け下手な母としては、息子に早いとこ規則正しさに魅力を感じるようになってほしいものである。
ところで、息子を最近「ちゅんた」と呼ぶようになった。
生まれてからしばらくは「息子ちゃん」と呼んでいたのだが、なんとなく大きくなってきたのと、髪を切って「ちゃん感」がなくなったのとで、私は息子の呼び名を「息子くん」にシフトした。
関係ないが、先日妹と話をしたとき
「私はお姉ちゃんに『今日からお姉ちゃんと呼べ』と言われたのを鮮明に覚えている」
と言われた。
私も、昔は「名前ちゃん」と呼ばれていたけれどいつだったか私の希望で「お姉ちゃん」に変えた、というのは記憶していた。しかし妹がそんなにも鮮明に覚えていたとは。しかもちょっと不服そうに言われたのでがーんとなった。
よく考えれば、それまで「名前ちゃん」と対等に呼びあっていたのを、いきなり
「今日から姉妹という上下関係をはっきりさせる。そのために呼び方を変えろ」と言われたのだから、無理もあるまい。
というわけでちょっぴり反省しているが、後悔はしていない。私は姉なのだからね!フハハ!
話をもとに戻す。
「息子ちゃん」から「息子くん」にシフトしたことによって、自分ルールvs口の大乱闘である。
自分ルール的には「息子くん」。
でも口は「息子ちゃん」。
結果、「息子ちゅん!!!」と呼ぶ回数がダントツで多くなった。
はじめは言い間違いに笑っていたが、途中から、面倒だから「息子ちゅん」でいいやーと思っている自分がいたことは否定できない。
というわけで、今や名前の部分もなくなり「ちゅんた」である。
名前は親からの最初のプレゼントとか言って名付けたのに、ちゅんた。
名付け辞典を買い、字画を調べまくり、変な意味がないか漢字辞典で鬼のように調べたのに、ちゅんた。
結婚式で「私が両親からもらったもので一番気に入ってるのは名前です!!!」と謎のランキング発表をした母が、自分の息子を呼ぶ名前がちゅんた。
名前とは一体、と思うこともあるが、
小鳥みたいで結構可愛いと気に入っている。
ごめんね、ちゅんた。
「アガーガ(おかーさん)!」って怪獣みたいな名前で呼ばれても、返事、するからね。
保育園の面接
べビオも10か月を過ぎ、ついにこの時期がやってきた。
保育園探しだ。
俗に言う「保活」というやつだ。
べビオが生まれる前から、様々な保護者向け雑誌で
「早めの準備がカギ!今からの保活」
「ママたちみんなどうしてる?保活のすべて!」
などという恐ろしいワードは目にしてきたので、私ももちろん保活という言葉は知っていた。
ちなみに、世の中のほとんどの事柄において、
「〇〇という言葉は知っていた」
という台詞は
「正直知らないけど、知ってると言って知ったかぶりがばれるのも恥ずかしいし、かといって全然知らないと思われて馬鹿にされるのは嫌だから、とりあえず言葉は知ってると言っておこう」
という思いが詰まっている。
人間とはなんとプライドの高い生き物なのだろう。
さて話が逸れたが、上記の保活の件も例にたがわず、私はほぼ何も知らない状態であった。
さらに我々は保活スーパー激戦区に住んでおり、妊娠中から保育園を探しているという人も少なくないらしい。
そんなこととはつゆ知らず、妊娠中はぼーっとジグソーパズルやら懸賞パズルやらをやり、出産後も育児とツイッターに勤しんでいた私は、育休の期限に追われて尻に火がつき、ドタバタと準備をすることとなった。
保活は思ったより大変だったが、そんなことは他の人気ママブロガーさんの記事のほうがよっぽど分かりやすく面白く、ポイントまで丁寧に書いてあるので割愛する。
保活について詳しく知りたい人は、以下を読んでも時間の無駄なのでおすすめしない。
私が保活で考えたのは「子育てで大切にしていることは何か」である。
というのも、保育園だからといって「申込書です、入れてください」「はいオッケー」と入所できるわけではない。なんと面接があるのだ。
1歳に満たない赤子とともに面接を受けるだと…?
こんなこと言うのもなんだが、私はわりと面接が得意な方だと思う。
高校も大学もバイトも就職も、すべて面接ありの試験で受かった。ちょっとくらい頭が足りていなくったって面接でカバーできちゃう幸運な能力だと自負している。
だが、ベビオの面接となると話は別だ。
何を聞かれるのだろう。不安になってすぐに調べた。
すると、「おうちではどんなことを大切に教育なさっていますか、と聞かれてかたまってしまいました…。」という、同世代ママのなんとも身につまされる苦労話がヒットしたではないか。
何を大切にって、みんなそんなに余裕があるのか。子どもが死なないように育てるので精一杯だったのだけれど、みんなそんなに最初から志高く子育てしているのか!がーん。
なんて、一瞬焦ったが、たぶん10人中8人は私と同じだと思う。いや絶対そうだ。そうであれ。
しかし、もし本当に面接で聞かれたらそれこそかたまってしまう。まさか「死なないようにしていただけで、そんな上等なことは何も考えていません。ハハハ。」とバカ正直に答えるわけにもいくまい。私が保育園の園長なら、面接の場でそんなにも開き直っている親がいたらドン引きだと思う。一回帰ってよく考えて出直して来てくださいと言ってぴしゃりと戸を閉めて終わりである。
そこで、私もこれからは何かを大切にしてベビオを育てようと考えた。
まだ1歳にもならない。間に合う。人生100年時代と言われる今、まだ100分の1である。よゆうのよっちゃんイカだ。
しかし、考えれば考えるほど、面接で答えになるような、ズバッと「これです!」というような言葉が見つからない。思いつくものはたくさんあるのだが、なんだかどれも「これ」と決めるにはいまいちなのだ。
そこで、自分はどう育てられたか思い返した。私の両親の教えで最も心に残っていること。
私の父は、
「何においても面倒くさがるな、面倒くさがった瞬間失敗する」「物を探すときは電気をつけろ」「食事の前にケンカをするな」
の3つをよく言っていた。はじめのが自己啓発本の帯みたいなので後ろもそれっぽく見えるが、何のひねりもなくただそのままの意味である。
私の母は、
「歯を大切にしろ」
と言っていた。読んでくれている方はみんな、え、そんなこと?と思っただろう。もしくは、何か深い意味があるのではと勘繰ったかもしれない。しかしこれもそのままの意味である。
というか正直、母からは叱られすぎて全部なんか覚えていられないし、だいたいいつもマシンガンのように言葉を浴びせられていたので心に残る間もない。叱り言葉のシャワーである。私はそのシャワーを滝行のように浴び心を強くしていき、言葉たちは水道管を通って静かに地球へとかえって行った。
歯を大切にしろ、というのは叱られて言われたものではなく、どんなタイミングだったか忘れたが母が噛みしめるように言っていたため、私の心にひとしずく残ったのだと思う。
…とまあこんな感じである。これを父母、特に母が読んだら大変だ。大激怒か、無念のあまり滝のような涙か、どちらにせよ私の滝行は決定である。
私の親が何を大切にしていたのかはわからないが、親が大切にしていることが子どもにとっても大切なことになるかは、子どもの考え方によるのだろう。共感できればそれをよいこととして選ぶだろうし、もっと他に大切なことを見つけるかもしれない。
「大切にしていること」と言われ、友だちを大切にするとか行儀よくするとか「子どもに大切にしてほしい」ことばかりを考えていたが、そうではなく、「子どもを育てる上で親自身が大切にしている」こと、たとえば子どもの話は最後まで聞く、間違ったら大人もちゃんと謝る、そういったことを保育園の先生は聞きたいのではないかと思う。なんだそうだったのか。それだったらいくらでも答えはあるじゃないか。
なんだかいつにも増していいことを言った風になっている。保育園の面接でもし聞かれたら、この記事を紹介することにします。
ご無沙汰しております
すっかりご無沙汰してしまった。
母がブログを書こう書こうと思ってぐずぐずしている間に、なんとべビ男は生後8か月を過ぎた。
離乳食もがつがつ食べ、2300gちょっとだった体重は8キロを超えた。
大人になってしまうと時間の過ぎるのなんかあっという間で、
前の記事から2週間くらい経っちゃったかしら?ってな感覚だったが、
子どもは1秒1秒無駄にせず成長しているのだなあ、もっと時間を大切にしよう、などと
人生で2700回目くらいの反省をしているところである。
今回は、なぜブログが長い期間書けなかったのかよく考え、至らない己を振り返り、
戒めとして記録することにした。
よってべビ男は関係ない話もあるが、お許しいただきたい。
考えた理由は3つである。
1つ目は、ただ単に育児がハードスケジュールすぎたということ。
つまりブログを書いている暇がなかったのである。
朝はなぜか5時に起きる息子、昼寝はほとんど抱っこのまま。
1日中、掃除だの洗濯だの飯の用意だのに追われ、
かわいそうに、旦那が帰ってくる頃には私のHPは2~5である。
HP2のときは、ベビ男を寝かしつけたまま沈没。
HP3のときは、口角が下がったまま、生きるのに必要なことを済ませ寝る。
HP4のときは、口角を上げて、生きるのに必要なことを済ませ寝る。
HP5のときは、旦那にしゃべりたいことをぼそぼそしゃべって、生きるのに必要なことを済ませ寝る。
こんな感じである。
私にとってこのブログは、人生を彩るものであり、生きるのにどうしても必要なものではない。
パセリみたいなもんである。(パセリ農家さんすみません。)
というわけで、貧困によりしばしパセリのない料理が続いてしまったが、
これからはスープにもサラダにもステーキにも積極的にパセリを添えようと思う。
2つ目の理由は、PCでしか文章を書けないくせにPCを開くのが面倒だからだ。
1つ目の「忙しくって」という、
連絡をよこさない彼氏にしびれを切らし、遠まわしに「もう少しまめに連絡がほしい」と言ったところ、あたかもお前は暇だろうけど俺は仕事してるんだから邪魔しないでくれ面倒くさいというニュアンスを含んだダメ男が言い放つ返事
のような理由が思い当ったとき、
「スマホで書けたらいいのか。」と思った。
ただ残念ながら、これが難しいのである。
スマホで長い文章をまとめることができないのだ。
昔から、原稿用紙に文章を書くのも苦手だった。
1文字1文字が離れすぎていて、文章の中身までとっ散らかってしまう。
基本的に頭の中が散らかり放題なので、人としゃべっているときに突然違う話をすることも多い。
書く、という作業は、話す作業よりはましだがそれでもまとめるのにかなりの努力を要する。
スマホでブログを書こうとすると、画面に映し出される文章には限りがあるので、
わりと早い段階で「あら、最初何を書いてたっけ。」となる。
PCなら、画面を大きくしてある程度読み返しながら書き進めることができるので、
なんとか題名がつけられるレベルの散らかりようで済む。
というわけでPCでしか書けない。
しかしPCは電源をつけてネットにつないで云々が面倒くさい。
というわけで、ブログは書かずスマホの140字に甘んじていたのである。
3つ目の理由は、ポケ森である。
ポケット版どうぶつの森だ。
理由が3つあってどうこう、時間が、PCが、とかここまでぐだぐだ述べてきたが、
べビ男が寝ている時間はほぼすべて、私はどうぶつの森で暮らしている。
それが最大の理由だ。
本当は、どうぶつの森でどんな暮らしをしているか詳しく書きたいくらいだが、
そんなことをしていると今日のどうぶつの森で暮らす時間が減るのでやめておく。
流行った時に「もう学生じゃないし、やらないよ。笑」などと抜かし乗り遅れたため
森の奥で、誰にも知られずひっそりと暮らしている。
知らない人に恐る恐る友達リクエストのようなものを送ってもみたが、
なにせ全身カエルの恰好で裸足、その上妙ちきりんなアカウント名と、怪しすぎるので全然承諾してもらえない。
でもそれでいいのだ。
1日のうち、母でない、カエルの時間が少しでもあるというのは心にゆとりを生む。
人間、ひとつのコミュニティだけで生きていると逃げ場がなくなって、息苦しくなるときが必ず来ると思う。
仕事をしていたときは、職場と家庭の2つの場所で生き、
たまに異なるところに顔を出しては息抜きをしていた。
しかし子育てしているとそれが難しい。
しかも、コミュニティにいるのは、自分と、言葉の通じない赤ちゃんの2人。
そして常に母として子の命を守るため、頭も心も張りつめた状態である。
だからときどき、森の奥でカエルになり、裸足で魚を釣りまくる。
お金にはならない。友達もできない。なんにもならない。
でもそのおかげで、今こうして私もベビ男ものびのび暮らしていられるのだと思う。
ありがとう任天堂。
0時まであと少し。
そろそろカエルになる時間が近づいてきたので、今夜はもう失礼します。
森に帰りますが、追わないでください。
裸足だから、誰も探さないか。